小説

花吹雪

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今日は太宰治の命日です。

そんな訳で、
自宅の太宰の小説を何冊か見返すべくたまたま本棚を漁っていたら、
上のようなボロボロに成り果てた一冊の本が出て来ました。
おそらく、日本文学が好きだった母の所有していたものだと思うのですが、
発行年数が1955年という古さに驚きました。

こちら、日本文学アルバムなるもので、
太宰の生誕から終焉までを写真で追うという内容。

人間失格読了後、ネットで太宰にまつわる写真を探したにも関わらず、
これといっての収穫はなしだったのに、
こんなに身近に在ったとは・・・^^;

そして中身を目で追っていると、
まさに人間失格の本文冒頭に表されるような写真が数枚載せられていました。
幼い頃の一枚などは、本当に小説本文が形容するままでした。
誰よりも笑みを浮かべ、真っすぐカメラに向けて写るにも関わらず、
何も中身を持ち得ていないような。
そして実際、油絵にも嗜んでいたことを知りました。
今日になって知る、小説の主人公と太宰の共通点。

今夜はもうちょっと太宰の世界に浸ってみようと思います。

人間失格

昨日のことになりますが、
日記に記し、自分が行こうと決めたのは太宰治の墓でした。

吉祥寺から玉川上水を下って三鷹方面に歩けば、
彼のお墓があるのです。
自分の家から近いのに、行ったことがなかった^^;
彼が玉川上水に身を投げたことは知っていましたが、
お墓もこの付近にあると知ったのは数年前でした。
そのころから行きたいと思っていたのを、
昨日ふいに思い出して決めたのです。
今年の始めに久しぶりに読み返した人間失格がきっかけになったのだと思います。
また、彼の命日、桜桃忌が近かったのも何か関係しているのかもしれません。

毎年、紫陽花が一輪ずつ花開くのに気付くと、
このころに散った人なのだなぁ、そう思い出す人です。

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太宰の作品はよく好きか嫌い、いずれかに分かれると評されますが、
自分はどちらかと言えば好きな側に傾倒していると思います。

文豪、太宰の作品を最初に目にしたのは、
国語の教科書に教材として取り上げられていた「走れメロス」からでした。
こちらといえば人間失格と比べればあまりにも分かり易いように思える短編小説で、
今思えば、一見その分かり易さゆえ、大人となって読み返せばこそ
また新たに発見することも多いのかもしれません。
自分にはメロスよりも名前共々、セリヌンティウスの方が深く記憶に刻まれています。
自分がセリヌンティウスだったら、たまったもんじゃないな・・・、
当事は素直にそう思ったから。
彼のその立ち居地に加え、自分が何故だか覚えにくい名前のほうが、より「覚えてやろう!」などと意気込む性質だったことも起因しているのかもしれません^^;

太宰を好き・・・といってもそれほど彼の作品に精通しているわけではありません。
この他に斜陽とグッド・バイ、新ハムレットに目を通したくらい。

ただ、久しぶりに開いてみた人間失格は、
以前自分が呑み込んだ人間失格とは違い、
新しい様々なことを感じさせてくれました。
読み手それぞれ一人一人にだけに語られる秘密。
その主人公の虚ろげに浮かぶ生を感じさせない輪郭、
そしてその主人公を本当に太宰自身の人生と重ねて見てしまう自分がいました。

この作品は太宰にとっての最後の完結作品であり、
リアルタイムで読んだ読者は第一回を読み、
第二回の掲載と同じ頃彼の自殺を知ったようです。
(全部で連載三回の作品)

そんな彼の最後の人生を彩った町が三鷹。
地図を便りに向かった先は禅林寺。
彼の向かいには彼の尊敬する森鴎外も眠っています。
玉川上水に沿って歩きましたが、
今は多くの緑が生い茂り、川面にまで視線が届きませんでした。
ここでも沢山の紫陽花が鮮やかに咲いていました。

そして運に恵まれたようで、
たまたま入った寺への道すがら太宰治文学サロンなる建物を発見。
今年できたばかりだそう。
中はこじんまりとしていましたが、
「私は、その男の写真を三葉、見たことがある」
この文章で始まる人間失格の冒頭2ページ・・・・
その直筆原稿を見ることが出来ました。

そしていざ禅林寺へ。
・・・・・
梅雨の時期です。
羽虫の多いこと、多いこと><
彼のお墓は特別目立つというわけでもなく、
ひっそりと三鷹の地に在りました。
しかし日は長くなったと言えど、
夕刻も過ぎた墓地に自分ただ一人・・・・^^;
もっとこの状況に”酔う”かなぁ、そう思っていましたが、
予想通りにはならず、「あ、これがお墓かぁ・・・」そんなかんじ。
亡くなってから空になった身体を納められた冷たい石の目印よりも、
彼自身が生の中にあったときに記した原稿と向き合ったときのほうが、
より自分としては高揚しました。

気を取り直し、墓地を後にし三鷹駅へ。
すると駅前のビルでたまたま中右コレクションの「幕末浮世絵展」を発見!!
すかさず閉館間際に入りました。
北斎、広重、国貞、国芳など作品数も以外と多く、
絵師の数も多かったのでいい展覧会にぶつかった!

雨上がり翌日の夕焼け空を背景に、
太宰と浮世絵に浸る金曜日となったのでした。 続きを読む

ポルトベーロの魔女

パウロ・コエーリョ氏の新作を読み終えました。

まず読み終えるまでに感じた引っかかりが一つ。
今回の作品は自分に届くまでに厚い壁が邪魔をする。
著者の描く世界が発する呼吸が、翻訳者の放つ呼吸と食い違い、
読者である自分の元にストレートに届いていない気がしました。
今回の著者の試みはただでさえ、
「複数の人間が語りだす一人の女性について」という客観視のスタイルを基盤ともしているので、
この壁はまさに自分と物語の間に立ちはだかる茨の道に成り得たような気がします。

止まらなくていい箇所で足止めをくらったり、
幾ら反芻してもなかなかすぐには自分の中に落ちていかなかった、
そんな箇所が多々ありました。

そんな障害を抜きにこの作品を視てみるならば、
まずはいつも通り、パウロ氏の作品に共通しての感想が生まれます。
凄く分かる部分もある、けれどどうしても全てを知り得た感覚にはなれない・・・
美味しいのは分かるのだけれど、それを自分は味わい尽くせない・・・とでも言いましょうか。
それでもパウロ氏の本を読み終えると、毎回心を洗わされた気分になれます。

魔女。
パウロ氏の描く魔女は偏見の意味合いが含まれ、
度々批判されたり、昔のお伽の物語で表される魔女ではありません。
今までの彼の作品の多くに描かれた人間性を持つ女性のことです。
今回は主人公の立ち振る舞いから、周りの人間たちに魔女という言葉で表現されるようになったのです。
ただ、前述したようにこの物語は彼女の知人数人を通して彼女の情報が入るだけ。
どんな人間で、それぞれどんな関係を持ったのか?
それは語り手により違い、各々の偏見に染められています。
だからこそ、より「魔女」という言葉に意味が生まれるのかもしれません。
正直言って、語り手それぞれの情報を組み合わせても彼女の像はいつまでたっても朧げのままです。
ただ、順を追って彼女の辿った道を知ることは出来る。

自分の生い立ちを知り、人々たちと関わり、自分はどう生きていくのか模索する。
そしてそのためには直感を信じ、困難を苦にしない姿勢をとる。
その結果、自分は何を生み出すのかを知ることとなる。

パウロ氏の作品はどれもスピリチャルの要素を多く含みます。
それは読んでいる過程で必ず誰もが気付くように、物語の重要な芯になっています。
一見、こういった内容は怪訝に思われがちですが(かくいう自分もそうでした)、
パウロ氏の描く物語はすんなりと「素敵だ」と思うことが出来ます。
根拠がないから、論理がないから、だから信じない。
そうじゃない。
そこに明確な理由がなくとも、
自分が信じた方が明るい気持ちが保てるのならば、
それは信じる価値があり、意味がある。
彼の作品を読むと、そう胸を張って思えるようになります。

今回もそう思うには至ったのですが、
物語の進行手法が、なるべく彼女に靄をかけるよう・・・そう意図されていると思うので、
しばらく時間を置いた後に再度読み返してみようと思います。
そうすることで、きっと初見では感じ得なかった物が出てきそうな気がします。

ピエドラ川のほとりで私は泣いた

今日は母親の命日です。

命日といっても今年は経文を唱える伏目の年ではありません。
そしてあの時から8年目ともなれば、自然とお花を買って、お茶を淹れて、ちょっと話しかけてみる。
そんな当たり前の、まるで一年に一度の行事のように落ち着いた気持ちで向かい合える日になりました。
毎日の日常にオプションで"母への気持ち"を加えるだけです。

そうは言っても、この日ばかりは意識して
「ちょっとちゃんとしよう・・・」などと考えたりもしてしまいます。
人は日にちこそ違えど、365日のいずれかを何かと特別視したいものだもの。

そんな伏目の日でもあったので、
かねてから読み返そうと思っていた本を手に取りました。


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「ピエドラ川のほとりで私は泣いた」

この作品を含め、
パウロ・コエーリョ氏の物語は自分を大きく変えてくれました。
彼の作品により、意識、物の見方という視野が広がった気がするのです。
作品全てにおいて共通するテーマは、人間の在り方、そして愛です。

ここのところ、本の読み返しをよくするようになったのですが、
それで気付いたのは人の記憶とは本当に曖昧なもの。
当初手に取り読んだときは、リアルにあんなに箇所箇所で感銘を受けたのに、
読んだ日から時が流れてしまうと"感銘を受けた"という外枠だけしか残らないの。
これは本だけでなく、母への記憶も同じです。
母の存在は常に確かなものであるけれど、日が経てば経つだけ、
何をしただとか、どういう感情をその時抱いていたのか、
そういう細かい"部分"は薄れ去り、楽しかった日々だけが、
まるで綺麗な額に入れられ、形の明瞭に欠けた印象派の絵のように心の一部に飾られている感じ。

悲しいと思う反面、今の自分にしか感じ得ない新しい発見を本は与えてくれるし、
母のことで言うならば、母が思い出に染まれば染まるほど、
新しい出会いを大切にするようになった気がします。

最後に読み返し始めて気付いたこと。
自分は最初に読み終わった日付けを常に本に記入するのですが、
この本、最初に読み終えたのが6年前のの4月15日でした。
丸々365日×6を終えて再び手に取ったんだなぁ。
プロフィール

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